渡部昇一の『頼山陽「日本楽府」を読む』シリーズの書評の中に、否定的見解があるのを見つけた。
渡部昇一の古代史入門 頼山陽「日本楽府」を読む
https://www.amazon.co.jp/%E6%B8%A1%E9%83%A8%E6%98%87%E4%B8%80%E3%81%AE%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E5%85%A5%E9%96%80-%E9%A0%BC%E5%B1%B1%E9%99%BD%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%A5%BD%E5%BA%9C%E3%80%8D%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80-PHP%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B8%A1%E9%83%A8-%E6%98%87%E4%B8%80/dp/4569679722/ref=pd_cp_14_1?_encoding=UTF8&pd_rd_i=4569679722&pd_rd_r=fd78743c-5750-11e8-af44-adb0d105120e&pd_rd_w=1RP4t&pd_rd_wg=ZI4rY&pf_rd_i=desktop-dp-sims&pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_p=2536935629785765646&pf_rd_r=GQSMB52QRWARQK5WYXBC&pf_rd_s=desktop-dp-sims&pf_rd_t=40701&psc=1&refRID=GQSMB52QRWARQK5WYXBC
多くの史料を検証したうえで書いたものではなく、特定の一冊中心の歴史観で大丈夫なのか?という疑問が生じるのはやむを得ない。
しかし、一方、頼山陽「日本楽府」をテーマにして今のうちに何か書いておかないと、この本が埋もれてしまうという危機感が先行して出版化に至るケースもあるだろう。
もちろん、すべての本が完璧であるはずはない。
この本にそんなに完璧さを求めるなら、書店に出回る新刊書の大半は素晴らしい出来栄えであろうか?新刊書の大半は立ち読みで十分か、駄本の類である。また、初心者向けにわかりやすく解説する本に本としての価値はあるのだろうかということになる。
また、渡部昇一の歴史書について、厳密なる研究者の視点で見て間違いがあると指摘する方がおられたが、通史どころか論文として認められるレベルに達していないようであった。
自分のことを棚に上げ、他人の著作には到底実現不可能な完璧さを求めるケースが続出しているような気がする。
もともと最初から完璧なものなど不可能だと割り切れば、ある程度書き綴り、視点を変え、何度か書き換え、徐々に完成度を高めていくやり方があると思う。
肩書がある学者でもないため、始終、作品として位置づける必要はない。
在野は在野の立場を利用し、下書き感覚で臨み、必要に応じて書き直し、加筆修正することは許容されると考えるのである。
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