「知の湧水」(渡部昇一)249~250頁にて、戦時中、こそ泥が横行したことを紹介している。
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昭和十九年(一九四四年)になると、中学の教科書も突如、国定になり、一年前のものに比べるとひどく安っぽい作りで、紙も粗悪であった。物資の窮乏はますます進み、こそ泥はますます増えた。地方では名門と言われた私の中学のなかでも多少ぼんやり者だった私は、ズック靴(当時、革靴は誰も履いていない)の新しいのを盗まれたし、教科書も入れた袋ごと二度盗まれたし、柔道の帯や剣道着も盗まれている。
私の姉も、役場でゴム長靴(雪国の最貴重品)を盗まれている。そのとき、姉の同僚に「長靴を盗まれたのでは家で叱られるでしょう」と言われた。姉はその時、「うちでは盗んできたら叱られるけれども、盗まれたと言って叱られはしないワヨ」と答えたというので、ちょっとした美談として近所で噂された。
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世代的には、昭和5年生まれ前後。
さて、日本軍は、軍事占領した先で火事場泥棒みたいなことはしなかったと、多くの歴史書に書いてある。しかし、実態としてそれは本当なのだろうか?
文庫本となっている、「徳富蘇峰 終戦後日記『頑蘇夢物語』」(講談社現代新書学術文庫)には、277~298頁にかけて、終戦当時、海軍物資を横流しした軍人が多数いたと書かれている。
また、参謀たちは、特攻兵を含む兵員を置き去りにして、自分たちだけ安全な場所に逃げた?と書いてある。
この本を読むと、山本五十六名言集を読むのが馬鹿馬鹿しくなる。
実は、高校時代、同級生のお父さんが海軍元軍人で、終戦時に外地で航空燃料を隠匿、内地に輸送、それを元手に、戦後、ガソリンスタンドを経営、財を成したという話を聞いたことがある。徳富蘇峰の本を読み、軍事物資の横流しが広範囲だったことを改めて知った。
もちろん、物資の隠匿、横流しは、海軍だけで起きたとは思えない。
戦後、特攻攻撃が行われている最中、自分たちは我関せずと知らぬふりをし、戦後は海軍善玉説を振りまいた海軍高官たち、軍事物資横流しして蓄財する海軍軍人OB、国会議員にまでなった海軍高官OBもいた。
特攻攻撃は、ミッドウエー海戦以降、無茶な消耗戦を続行した尻ぬぐいであろうと、私はみている。特攻すべきは、参謀たちであるべきだった。
そして、田母神俊雄の選挙に係わった人たち。裏切って告発状を提出した人物がいた。選挙責任者だった自衛隊OBはかなりの金額について横領を働いた。火事場泥棒的資質を持った人物だったようだ。
これとは別に、陸上自衛隊OB幕僚長クラスの講演を聞いたことがある。一言で言うと元軍人とは思えない、緊張感なき講演であった。少なくとも私には軍人には見えなかった。自衛隊内の人事屋みたいな人に見えた。
直立不動で語り続けた、田母神俊雄の講演の方が数段勝っていたように見えた。
そして、今回の防衛省日報事件。
防衛省の上層部、特に事務方の規律が緩んでいるためであろうと、私は推測する。
以上
あまり語られることがないことであるが、レーニンは革命家として植民地解放を最初に煽った人物であるようだ。
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http://www.y-history.net/appendix/wh1501-108.html
ヨーロッパからアジアへ 第3回大会
さらに、ドイツ革命に失敗し、ハンガリー革命も押さえつけられてしまい、ヨーロッパでの革命運動はたちまちのうちに行き詰まってしまった。ヨーロッパでの革命が困難になるなか、1921年の第3回コミンテルン大会は、国際共産主義運動の攻撃的性格を転換させ、資本主義諸国内の社会民主主義勢力との協調と、植民地支配下の民族主義運動の支援という、「統一戦線」を目指す方向に向かうこととなった。特に植民地の被抑圧民族の解放を方針として掲げたコミンテルンは中国革命に対する支援を強め、1921年の中国共産党の結成を援助し、さらに国民党の孫文に働きかけて国共合作(第1次)を実現させた。中国国民党との協力には否定的な意見もあったが、スターリンは強く国共合作を進めた。しかしその見通しは、1927年の上海クーデターで誤っていたことが明らかになった。それ以後、中国ではコミンテルン指導に従わない毛沢東の路線が強まることとなる。
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「コミンテルンの謀略と日本の敗戦」(江崎道朗)において、「1921年の第3回コミンテルン大会」にて、「統一戦線」と「植民地の解放」という方針が打ち出された、その前年にレーニンが、「民族・植民地問題についてのテーゼ」という文書を出していることに言及している。(67~68頁)
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「アジア・アフリカの植民地解放闘争」を徹底して煽れ
さらに、レーニンは、アメリカのウイルソン大統領が民族自決を主張したことを踏まえて、一九二〇年七月二十八日に「民族・植民地問題についてのテーゼ」という文書を出している(一九二〇年七月二十八日、第二コミンテルン大会で採択)。
この中で、共産主義者はアジア・アフリカにおける植民地解放闘争を徹底的に応援すべきである、と宣言した。
《(四)……地主とブルジョアジーの打倒をめざす共同の革命的闘争のために、あらゆる民族、あらゆる国のプロレタリアと勤労大衆をたがいに接近させることが、民族・植民地問題についての共産主義インタナショナルの全性悪の重点とならなければならない、という結論がでている。なぜなら、このような接近だけが資本主義にたいする勝利を保障することが、この勝利なしには民族的な圧倒と権利の不平等をなくすことはできないからである。…》(『コミンテルン史』付属資料より引用。引用中の…は言文のまま。以下同じ)
植民地解放を徹底して応援することによって、イギリスやフランス、オランダといった資本主義国に対する反乱を煽っていけば、「資本主義にたいする勝利を保障」できると主張しているわけである。
アジア・アフリカの植民地解放闘争を利用して、世界の共産化を進めようとしたのだ。そして残念なことに、欧米列強の支配に苦しんでいたアジア・アフリカの独立運動の指導者たちは、このコミンテルンの呼びかけに積極的に呼応していった。
ただし、コミンテルンの目的は、アジア・アフリカの独立を支援することではなかった。
アジア・アフリカの「共産化」が目的であったのだ。
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共産主義者だった人たちはこの事実を知らぬはずはない。
そこで、考えなくてはならないのは、レーニンの打ち出した植民地解放と日本軍が植民地支配されていた地域に軍事侵攻、一時的に独立させたこととどう異なるのか?ということなのである。
中川八洋などの本によると、開戦時、日本の軍部は共産主義者だらけであったとの説が有力であるが、植民地解放は、1920年のレーニンのテーゼを震源地とするのか、検証する必要はないのかということなのである。